動くな

 ふと、背中にいやな気配を感じた。
 とっさに振り向こうとした俺に向けられた言葉は、分かり易すぎるほど単純だった。
「動くな。動くと撃つ」
 一瞬、肩の動きが止まる。
 俺は自分の耳を疑った。というか何が何やら、理解しようにもできなかった。
 ……ということさえ、その時は考えられなかったが。
 夏の日差しのきつい今日。薄いシャツの生地を通り抜けて、冷たい感触を感じる。それがこの暑さにあってなんとも心地よく涼しかった。
 整理しよう。
 ………でも一体何をどうやって整理すればいいっていうんだ? 俺は今20歳で、大学生。この間までやってたコンビニのバイトをやめて、今はプータローで、夏休みに入ってただブラブラしている毎日で、たった今だって家の近くのコンビニに、ここはバイトしていた店じゃないけど、んなことはどうでもいいんだ、そう、『パチプロ必勝ガイド』を買いに行こうとしてたとこで、それもこれも最近は調子悪くって、リーチかかったと思ったら全部レギュラーだし、1万つっこんでも12回しか回らないしで、いやだからそんなのはどうでもいいんだって、もちろん日頃から誰かに狙われてる覚えなんて当たり前だけどぜんぜんないわけだし、じゃあヤバい人じゃなくて警察の人かしらん。べつに麻薬の運び屋ってわけでもないし、あ、ごめんなさいごめんなさい、確かに中2の時エロ本万引きしましたけど、あれは勝っチがどうしても見たいって、けど恥ずかしいし、この歳じゃどうせ売ってくれないからって、森やんと一緒になってけしかけたからで、俺はいけないなって思ったんですけど、そりゃ俺だって興味がないわけじゃないし、正直見たかったんですけど、まあ見たら見たで俺はアブノーマルはちょっと……だからそのいやまてよ、いくらなんでも7、8年も前の万引きで警察が拳銃突きつけて逮捕しに来るわけないよな。それじゃあおまわりさんでもない。
 そうすると他には……。
1. これは夢だ。
2. 誘拐。
3. 実は俺は偶然、重要なブツを手に入れてしまった。
4. 実は生まれた時からある組織に命を狙われている。
5. 実は親の仇。
6. 実はこの人は宇宙人。
7. 実は星新一オチで、おかしいのはオレ。
8. 実は亜希子さんと正彦くんは血のつながった姉弟。
9.「しまったぁーっ! もっと早く僕が気がついていれば……」
 まず1。いくらなんでもこんなにはっきりしているのに夢だとは思えない。できるなら思いたいけど。語調の鋭さからいって、ほっぺたでもつねろうものなら、その時こそこれは本当の(二度と醒めない)夢になるだろう。とても後が怖くてできない。
 2。このまま黒いリムジンに乗せられて、連れて行かれたところはまるで日本じゃないような豪邸。でかい門を車のまま通って、よく手入れされた植え込みにはさまれた坂をのぼっていく。その途中には何だか中学校の美術室に顔だけあったような白い彫像がちらほらと立ち、車を降りて案内されるまま屋敷の中へ入ると、だだっ広い玄関ホールで真っ赤な絨緞と同じ色をしたガウンを着た謎の老人が「手荒なマネをしてすまなかったのう、別に乱暴をするつもりはなかったんじゃ」といって俺に打ち明けだした話は、今をさかのぼること20数年前、ここのメイドだった女性と跡取りである自分の息子が駆け落ちして消息を絶ってしまった。八方手を尽くして行方を捜させていたが、最近になって今度こそ確実だという感触を得た。どうやらその情報は間違っていなかったようで、そこに息子夫婦は暮らしていた。今ではもう儂もふたりのことは許している。ここに帰ってきて、儂と一緒に家族3人で暮らそう、と思っていた。だが、詳しく調べさせてみると息子はすでに交通事故でこの世にはなく、そのメイドは現在一粒種の男の子を育てながら、母と子、ふたりきりでひっそりと暮らしているということがわかった。そしてその子供、つまりわしの孫にあたるその子こそ、何を隠そう、おぬしなんじゃっ!
 ババーン。
 いや、これ違うな。俺親父いるし。
 じゃあ3。そういえばこの間、財布拾ったからなあ。でも22円しか入ってなかったし、それはそのまま捨てるのもなんだから一応もらっといたけど、交番に届けるのもちょっとめんどくさかったし、がま口だったから他になにも入ってなかったし……このくらいなら別にドロボーのうちに入らないでしょ? だって捨ててあったようなもんだもの。もしこれが罪に問われるとしても、まさか後ろの奴が警察の人間だとは思えないし。
 っていうと4か。香港マフィアあたりが臭いな。いま何やかや大変だし(一九九七年現在)。外に漏れることは組織全体の崩壊を意味するようなマイクロフィルムか何かを内部の人間が持ち出して黒社会から逃走、かねてよりの計画に基づいて日本へと亡命。そこで彼はひとりの女性と運命の出会いをする。ふたりは一緒に暮らすようになり、やがて女の身体には新しい生命が。数年後、病を患った男は枕元にまだ幼い息子を呼び、息も絶え絶え、激しい咳に言葉を遮られながら、「もし父さんに何かあっても、仏壇のなかにある小さな宝石箱、あれだけはなくさないようにおまえがずっと肌身離さず持っていてくれ。だが、決して中をのぞいたりしちゃ駄目だ。約束だぞ」という言葉を最期に、ただ涙を流してうなづくばかりの息子の小さな手を両手で優しく包みながら、息をひきとった。
 それから10年後。
 いまや逞しい青年に成長したその息子は、20歳の誕生日、胸の奥深くにしまいこんだ父の言葉の本当の意味を母の口から知らされるのだった。驚愕の事実。その数か月後、いつものように学校から帰り、玄関をくぐった彼が見たものは、部屋じゅう目もあてられないほど荒らされた光景だった。
− そしてその夜から、母が戻ってくることはなかった −
 学校を自主退学し、世間の荒波にもまれて独り生きる青年の背後にとうとう忍び寄ってきた黒い影……!
 …………………………。
 ……俺、おふくろもいるしなあ。
 5。
「とうとう見つけたぞ……長かったが、やっと追いついた。この20年、親父の仇のお前の顔を一度でも忘れたことはなかった。忘れるわけがない。あれ以来親父は、トコロテンを食う時に辛子も海苔も入れることができないままだっ! だが、それも今日で終わりだ。今からお前に、お前が俺や親父にしたのと同じ、いやそれ以上の苦しみを味わわせてやる。せいぜい後悔するがいいさ。でもいまごろ遅いんだよ。お前が20年前俺の親父にしたことを、今ここで償ってもらう」
 って言われてもなあ。そん時まだ2、3歳のガキだから俺。
 頭に『777』って刺青でもあれば別だが。あれ違うな、『0120』か?
 なんか違うような気がするけど。まあいいや。
 そもそも、一体何が起きたらトコロテンに辛子入れられなくなるんだ。
 じゃあ、何だ。6。俺の後ろにいる奴はメケモ星から地球を征服しにきたタコみたいな宇宙人で、手っ取り早く近くにいた俺をつかまえて、何つったっけなあ、あれ、キャ……何だっけ? なんとかミュージックステーションとかいうやつ(※キャトルミューティレーション)で、地球人の生態を調べるために俺の身体を解剖するのさ。メケモメケモ言いながら。なぜかって、メケモ星人だから。あああーっ、こんなことなら、もっとあすかあきおのマンガ読んどくんだった。これだけむきむきむきむきむきむきむきむきむきむきむきむきむきむきむきむきむきむ

− 中略 −

 こんな考えてるばっかりじゃ埓があかない。いっくら考えても理由の理の字も思い当たらないし、このままじゃいつ撃たれるか分かったもんじゃない。とりあえず何が目的なのか聞いてみなくちゃ全然見当もつかないじゃないか。
 その時ふと、ある考えが脳裏に浮かんだ。
「これ、ドッキリ? ドッキリ? 」
「……動くな、と言ったぞ。3度目はないと思え。もし、次に動いたら撃つ」
 取りつく島もない。ちょっと頭を動かしただけでこれだ。
 しょうがない。身体は前を向いたまま、
「ななな何なんだ、あんた。一体どうしようってんだ。何かあるのか? 大声出すぞ。俺にこんなことしてただで……済むかも知れないけど、」
 ちょっと弱気。
「警察だってすぐに来るぞ。んで捕まるに決まってる」
「人を呼びたければ大声を出すがいい。それで困るのはお前の方だからな……いや、困っている暇もないか、その時は」
 涼しい声で恐ろしいことを言う。
 確かに大声を出そうものなら、誰かが助けに来てくれるかも知れないけど、それより鉛の銃弾が俺の心臓のあたりを背中から通り抜けてくほうが早いに決まってる。それでこいつが捕まったとしても、俺はぜんぜん嬉しくない。俺だって、俺が死んでこいつが捕まるより俺が生きてる方がいいに決まってる。だいたい、こいつが俺のことを、殺せれば捕まってもいいと思ってるんだったら、何言ったって無駄だ。いやいやいやいや、それならもうとっくに死んでるはずだよなあ。
 その言葉が本気かどうか分からないが、とりあえず助けを求めて辺りを見回す……と撃たれるから、人の気配を必死でさぐる。ここは2軒の家にはさまれた狭い路地裏。つき当たった大通りには車の音も聞えるけれども、少なくとも俺に見える範囲に人はいないようだ。
 ついてない。っていうかフツーいるだろ、おい。こんな昼日中に。
 そもそもこの光景を見て何の反応もないってことは、周りに誰もいないってことか。
 一体何だってんだ。俺が何したよ。したのかも知んないけど、それにしたって全然気がついてないってこと、こいつにも分かるだろう。説明くらいしてくれてもいいじゃないか。
 だいたいこんな暑いなか、立ちっぱなしで人にピストル突きつけて「動くな」ってのが失礼じゃないか。「動くな」はいいけど、いや本当はよくないけど、それからどうしろっていうんだ。それじゃ何のために俺にピストル突きつけてるんだ。突然現れて、「動くな」ってピストル出して、そのままかよ。何だよ、それ。俺は不愉快だぞ。
 暑い。すごく暑い。頭が少しぼうっとしてきた。そこの家の木にとまって鳴いているセミが、みわみわみわみわみわみわ俺におもしろい電波を送ってくる。頭のなかで、どぎつい化粧をしたオカマがヲホホホホホと微笑みながら黒い革のソファに横になってグラスを傾けている。そいつは顔面を粉をふく白いパテで埋め、2mもあるつけ睫毛で俺にウインクをした。昼に食った、とりチーズマヨネーズがアルカトラズから大脱走しようとするのを銃撃戦で必死にくい止めながら、なぜか『黒蜥蜴』という単語が浮かんだ。
 イライラしてきた。何で俺がこんな目にあわなきゃいけないんだよ。そりゃ、毎日毎日ゴロゴロ過ごしてるけど、学生の特権ってもんだろ? そんなんでいちいち撃たれてた日にゃ日本中ほんとの歩行者天国だよ。俺が総理大臣だったら、お前間違いなく今すぐ死刑だぞ。違った、裁判長か? 書記長? 書記長はいないか。わかんないけど、とにかく俺がえらかったら、お前なんか今ごろSPに取り押さえられて俺の足元に引きすえられてるとこだ。そして、俺は涙を流して許しを請うこいつを、いい気持ちで見下しながら言うのさ。
「俺のクツをなめろ」

− 中略 −

 ふと気がつくと、まだ相変わらず背中にはゴリッとした感触があった。『現実逃避』という言葉が頭に浮かんだが、なぜそんな言葉がでてきたのか分からなかった。痛いくらいに強く押しつけられてた先刻までよりは、いくぶんか力は緩くなっているものの、断固としてそこから動かないという意志が伝わってくる。
 泣きたくなってきた。何だかもう20年もずっとこうしているような感じを覚えたが、きっとまだ1分も経っていないのだろう。
「い、いい加減にしろ!」
 振り向こうとした瞬間、今まで背中にあてがわれていた銃口が振り向こうとした後頭部に突きつけられた。
「動くな。そろそろ時間だ。そのままゆっくりと手を挙げろ」
 おそるおそる、相手に万が一にも勘違いした疑いをもたれないように、極力注意を払いながら、やつの、いう、とおり、ゆっくり、と、てを、あげた。
 すると彼は、さも楽しそうに、笑いを含んだ声でこう言ったのだった。

「動いたな」

BACK