生きてあげようかな

 次に、飛行機が来たら、少女は、死のうと決めた。

 それに理由があったわけではない。このままずっと毎日毎日、苦しみに耐えながら生きていくよりは、いっそのこと何か特別なことがおきて、解放されてしまいたいと願ったのだった。ただ単にそのきっかけが欲しかっただけなのだ。
 もちろん言うまでもなく、死のうか死ぬまいか、まだ迷っていたわけではない。何をいまさらそんな未練がましいことではなく、ただいままでずっと、十六年とちょっとのあいだ生きてばかりいて、さてそれじゃここから生きてることをやめます、と突然その気になっても、いったいその区切りの線をどうやって引けばいいのかが判らないのだった。
 少女は部屋のベッドの上で、景色の見えない窓に向かって呆けたように、洗濯したてのふかふかの羽毛布団に腰をかけて、淡いグリーンのカーテンをずっと見るともなく見つめていた。
 それで何もかもやめにしてしまおう、と思った理由は別にあるのだ。
 一週間ほど前、少女はけんかをした。
 2人は恋人というには少々早い間柄ではあったが、はたで見ている友人たちがみな妬くほどに仲むつまじかった。
 2人はいつも、いつも一緒で、毎朝代わりばんこに相手の家に迎えに行き(月・水・金が、彼を迎えに行く日だった)、寄り添いながら昇降口まで来ると、少し大げさに言うならば今生の別れを惜しむように互いのクラスへと別れた。といって特別ベタベタとくっついていたというわけではない。少女には仲のいいクラス友達が大勢居て、少女の淡い恋についてみな一様に応援していたし、特に他人のこういう態度に反発する、いわゆる不良たちに目をつけられることもなく、いやむしろ少女には、そういうグループの中にも親友といってもいい人間が何人もいた。八方美人で誰彼問わずに色目を使って媚を売る人種や、その場しのぎで適当に相手の話に合わせることばかり巧みな人間とは違うけれども、まわりの誰からも愛されてやまない存在。確かにその時の少女には、そういった類稀な才能があったのだ。
 彼とは学年がひとつ違うため授業はもちろん違うクラスだったが、放課後のサッカー部にあっては選手とマネージャーという関係として、夏休みの合宿も1週間、一緒に過ごした。当然これまでに1人が一緒に甘い夜を過ごす機会などあるわけもない。出発の前夜など、少女は自分の鼓動が破裂しそうなほど大きく聞こえ、翌日真っ赤な目をして集合場所に現われて、バスの前でいつもと変わらず雑談にふける部員たち全員に、思わず心配そうな顔をさせたものだ。もっともその7日間の中で、少女が自分でも気づかぬくらい大きく想い描いていたほど、2人きりの大切な時間を過ごす機会などありはしなかったが。
 毎日の放課後も、暗い雨の日に部活が終わって家路に着くときも、よく晴れた日曜日の朝も、それから午後も、2人は一緒に過ごした。とはいえせいぜいが多磨川の河川敷へ遊びに行ったり、好きな俳優の出ている映画を観に行ったり、街へ出てきれいな服を見てはうっとりするくらいのもので、ファーストフードに入っては飽きもせずに、学校のこと、友達のこと、TVや雑誌の話、たあいもない話題で、気がつけば数時間過ぎるというのがいつものことだった。
 だが、それでもそのころは幸せだった。
 誰よりも。
 それがいったい、なぜだろう。あんなことになってしまったのは。
 今となっては毎日毎日を悲嘆に明け暮れるばかり、自分の部屋で独りきり過ごす少女には、すでにもう思い出すことなどできなくなっていたのだ。いや、たとえ憶えていたとしても、決して理解できはしまい。
そして、どうすることも。
 きっかけは、きっと本当に、本当に些細なことだったに違いないのだ。
 2人が2人とも、自分のことに夢中になるあまり、周りを振り返ることができなくなっていた。蒔かれた種子は知らず知らずのうちに芽生え、しだいに甘えという名の蔓をその樹体に絡ませながら育っていった。それは、支えという名の大樹にとてもよく似ていて、本人たちがそれと気づかぬうちに、いつのまにかその根をあますところなく張りめぐらし、自分だけのその幹をすくすくと太らせ、やわらかく透き通った、しかしどこまでも暗くふりそそぐ透過光ですべてを照らすその大きな葉をつけ、利己心や劣等感や支配欲といった、さまざまに澱んだ色彩のその果子を実らせ、その茎には自分に触れるものを傷つけずにはおかない刺を生やし、そうしてやがては、いつも目の前にあったはずの一番大切なものの上から、大きく暗い影を落として丸ごと包み覆い隠しつくしてしまう。
 そして内に外に、極みまで伸びたその刺は、自らの幹にさえ近づいてゆく。
 心に触れた刺は、だんだんと深く、深く食い込んでいき、そうして2人はその痛みについぞ気づくことがなかった。
 深く食い込んだ刺はやがて、2人を引き離した。
 もう、逢いたくない
 という言葉が口をついて出たのは、果たして2人のどちらが先だったのだろう。ずっとずっとずっと、ずっとあとになって、自分のあさはかさに気づいたその時には、すでに遅かった。
 明日もまた学校でいつものように会えるというのに、毎晩のように飽くことなく交わしていた電話も、それからぷっつり途絶えたまま。
 それだけではない。それからこの1週間というもの、少女は一度も彼の姿を見ることがなかった。まるで本当に彼女の前に彼を匿う大葉があるように、まるで神様が少女に決別を強いているかのごとく、学校にいても遇うことがなくなってしまったのだった。むろん、毎朝の約束など、あのときからすでにないものだ。唯一そこに行けば会えると分かっていた部活も、つい先日部員の数人が起こした不祥事のために、しばらく活動を停止させられて部室には固く南京錠が掛けられたままだった。
 ---会いたい。でも、会いたくない。
 ---会いたくない。けど、会いたい。
 少女の心の中では、まったく同じ部分に相反する感情が交錯していて、それぞれ交互に浮かび上がってくるどころではなく、常に同時にあらわれて少女を煩悶させては、つかみどころのない霧のように消えてゆく。だがそれも束の間、すぐにまたそれらはうち寄せる波にさらわれながら砂の上に見え隠れする渦巻き貝殻のように、目の前を消えてはあらわれ、あらわれては消え、ただの一時たりとも少女に安らぎをおぼえる時間を与えさせてはくれないのだった。
 たとえいま会ったとしても、お互いに気まずい感情と雰囲気にのまれ、自らわかっていながら、なお砂時計のへりをさらさらと光を映して流れてゆくような気持ちを、抑えることができないだろう。
しかし会わなければこのどうにもできない、切なさ、苦しさ、やるせなさ、恋しさ、辛さ、愛しさ、悲しさ、のすべてを、決してわかってはもらえない。相手のことを許そうとか、自分のことを許してもらおうとか、そんなことじゃないのは、心体の奥の奥の根っこの部分で、確実にわかっていた。それでも、いまの少女にはどうすることもできないのだ。
 自分の気持ちを自分でわかっていながら、自分でどうすることも、絶対に叶わない。どんなに足掻いても、どんなに思い詰めようとも、暗い闇、けっして底の見えぬ、陽の光さえとどかぬ海底の深溝へと、不安の悸きでとまらないひざをその痩せ細った両腕で抱えたまま、ゆっくりと、しかし確実に滑り落ちてゆくだけの自分をとどめることができないのだった。
 それがわかっているのに、いや、かえってだからこそ、なにもできない。どうすることもかなわない。たどり着いたジレンマの先で気味の悪い真っ赤な口を大きく開け、薄ら笑いを浮かべながら少女を待ちかまえていたのは、トリレンマという異形の怪物だ。たとえかたくなに目をつむり続けてそのさらに先へ進もうとも、あの同じ怪物が、ひとつ増えた頭にまたのっぺりと貼りつけたような嘲笑を浮かべ待っているだけだ。巨石のようにびくとも動かぬまま、しかしその両目だけは薄い笑い眼を浮かべて、こちらの様子をじっと伺っている。しかし生きているのか死んでいるのかすら分からないその怪物の容貌だけは、ゆっくりと少しずつその眉根を寄せ、鼻の頭に皺の数を増やし、その表情をしだいに変化させていく。明らかに人間のものではない、恐ろしく醜い怪物の顔でありながら、それは朝、起きぬけに覗いた鏡に映る自分とうりふたつに見えてしょうがなかった。とても、それを直視することなど、できなかった。
 少女は鏡から目をそむけた。
 鏡を覗くことでしか、自分の姿を見ることはできないというのに。それがどうしてもできなかったのだ。
 それから少女は自分の目だけで自分を見るようになった。
 それでもはじめのうちは、じりじりと近寄る怪物を見て、少女のなかでわずかに残っていた理性が警鐘を鳴らしていたが、時が経つにつれてそれも薄れ、いつしか少女は自分の目だけで自分を、見ているつもりになった。
 だめ、と耳元で囁く少女自身の本当の声、前後左右どこにも足を踏み出せなくなった心があげる、キラキラと輝く硝子に爪を立てるような、狂いじみたほどの声にさえならない悲鳴に耳を傾ける、ただそれだけのことが、今の少女にはできなかったのだ。
 あまりといえば、あまりにも残酷な結末。
 そして、失恋。
 その単語が頭のなかにあらわれるたび、なんてありきたりだろう、と自らその陳腐さを嘲るのだった。輝ける可能性に満ち溢れた、素晴らしい、一点の曇りもない生をいっさいがっさいかなぐり捨ててしまうには、あまりにも通俗すぎる理由。良識ある教師や人生の先達である大人たちのビー玉のような目には、ひとつのことだけを追いかけてまったく他が見えないでいる、世間知らずで滑稽すぎる独り相撲をして悩んでいるつもりになっただけの、浅はかな少女としか映らないだろう。
 少女は本棚から好きな本を1冊、『小さな恋の物語』を選んだ。
 デンマークの作家、アッセルの短編集。彼女は小さい頃、まだ難しい漢字も読めなくて母親に声に出して読んでもらっていた頃からずっと、この本が大好きだった。今ではすっかり陽に灼けて古いセピアに染まっていたが、いつか自分もこの本に出てくる幾人もの少女たちのように、素敵な男の子と、素敵な出逢いをして、素敵な恋をするのだと思っていた。そして、信じていたのだった。
 青い背表紙の少し剥げかかった縁に、そのやわらかな細い指を「そっと」掛けた。
 すっかり古びてしまった、新書本の硬いカバーの指を押し返す感触が、瞳の奥の方で滲んで今にもあふれそうな涙にかわるのを感じながら、慈しむように手に取った。
 読み慣れたページを、ゆっくりと時間をかけて、最初から確かめるように繰っていき、途中で読むのを、やめた。
 膝の上に開いて置かれたページの真ん中に、剃刀を1枚、まるですぐにもろく崩れさってしまいそうな押し花を挿むように、隠した。
 そして一番お気に入りだった、シャーリーの小さな赤いサンダルを履いて、玄関のドアをゆっくりと開けた。
 惚けるように見上げた空は、陽もすでに西に暮れかけていた。
 それが幸いなのかどうか、その光を映して雲ひとつなく、赫く蒼く冴えわたる広いキャンパスには、一条の痕跡すらなかった。
 このまま飛行機を見なければ死ぬことをあきらめる、というのではない。ちょっと手を伸ばして、本の間にはさまれた小さな切符をつかむのは、すでに決まったことだ。ただ、ただ自分の心のスイッチを押してくれるなにかが欲しかった。
 それをたまたま、「次に飛行機がきたら」と決めただけなのだ。
 それに理由があったわけではない。
 少女はまるでいつもの買い物に行く時と変わらぬ様子で、ふらふらと歩いた。
 ふらふらと、夢遊病者のようにあてもなく歩いた。
 行き先など、どこでもよかったのだ。
 すでにもう、決まっているのだから。
 少女のか細い足は無意識のうちに、駅に近い繁華街へ向いた。
 いつも2人で歩いたこの通り沿いも、きらびやかな店々のたたずまいも、景色を飾るポプラの並木も、人々の喧騒も、何もかも今の少女の瞳には映らない。今の少女の耳には届かない。空ろな眼差しで宙を泳ぐように、地につかない足でふらふらと歩むその姿は、まるで自分と外の世界をつなぐ糸を、誰かに裁ち切られてしまったようだ。それなのに、思い出のある場所を通り過ぎようとするたび、うわの空であっても、少女の胸には切なさがあふれ出してきて止まらないのだった。
 ジーンズショップの手前、きれいに葉並みを揃えられたポプラの下で、いつも待ち合わせた。
 湖畔での合宿の準備で来たときなどは、彼といっしょにキャンプ用品に囲まれて、買えるわけもない二人乗りのゴムボートを、夢見心地で眺めていた。
 通り過ぎたシャーリーのショーウインドウの前で、ブランドの品々を眺めるふりで髪の毛を直し、とても毎月のお小遣いでは手が届かないわとつぶやきながら、それでもなぜか嬉しそうに、にこにこと屈託なく笑うのが少女のくせだった。
 映画を観た帰りに、角を少し入った人通りの少ない路地の和菓子屋に必ず立ち寄って、「つるや」と焼き文字の入ったどら焼きとところてんを食べるのが、二人とも若いくせして大好きだった。
 長い行列のアイスクリーム屋で、少女がうっかりつまづいた拍子に、彼の顔にマッド・ジョージばりの特殊メイクを施したこともあった。
 周りの友達の間でも大流行のプリクラは街にあふれていたが、どちらも2人で写りたいとは思っていても照れくさくて、いつもお互いに言い出せずに終わった。
 彼の探しているCDは、いつ来ても見つかったためしがなかった。
 いつも焼きたての、ベーカリー。
 一番のお気に入りの、輸入雑貨店。
 それもこれもみんな、今では少女の胸を締めつける存在でしかない。
 そのままふらふらとゆっくり歩を進めながら、その目だけはここではないどこか遠くの景色を見つめている少女の頭のなかを浮かんでめぐるのは、他愛もない雑多なイメージ。

  枯れていく街路樹のポプラ
  澄みとおった湖畔の澱みに沈んだ鳥の模型
  悲観的でやりきれない映画
  嫌になるほど似ていない似顔絵
  ずっと昔に死んだピアニストの未完成の曲

 頭のなかに次々と現れては消える妄想に気を取られながら、彼女は歩く。
 名前も知らない会社寮の紫陽花の生垣を通り過ぎて、おそらく夕飯の支度だろう、限界までふくらんだスーパーの袋をカゴにぎゅうぎゅう詰め込んだ、おばさんの自転車に追い越されながら坂を下った。
いつもと変わらず車通りの多い街道沿いに少し歩く。大沼陸橋の見える手前の横断歩道で、信号が青になり、黄になり、赤になり、また青になってから渡った。
 そのままブランコがひとつあるだけの公園のなかを通り抜けて、土手の古いコンクリートの階段を、一段ずつよろめいて登った。
 階段は黒茶色の土が昨日の雨でまだぬかるみ、少女の履いたサンダルを、だんだんと濁った色彩に侵していく。
 土手の上に着くと、向こうに見知らぬ親子がキャッチボールをしているのが見えた。
 今は少女の爪先と同じ色に汚れてしまった、白いボールがミットにあたる音と、父親が愛する息子に向かって叫ぶ声の両方がやけに耳のなかで虚ろに響いた。
 小さなグラウンドのある川原の先では何人か釣り人が水辺に座りこんでいて、地面に竿を立てている。ここからでは見えるはずのないその糸の、長くのびる先を目で追いながら、同じように少女も草むらに腰を下ろした。
 体育座りの格好でなにげなく見上げると雲はひとつもなく、暖かい群青に染まる空は、まるで少女の心の中に澄みとおってくるようだ。
 ふと、誰かに呼ばれたような気がした。
 その声は細く空耳ほどのものではあったが、少女にはどこか遠くの方から確かに聞こえてきたように思えた。
 確かめようとして辺りを見回すと、遠く向こうではあの親子がキャッチボールをしている。
 釣り人たちはゆっくりと流れるせせらぎに向かって糸を垂れている。
 違う学校の運動部らしい集団が、土手の上を走り過ぎていき、犬の散歩がてらジョギングをしていた中年が、それに追い越されながら息を切らしている。
 しかし周囲の喧騒のなかに、少女を呼んだ声の主はなかった。
 やわらかな風が吹き、水と草と花の香を運んで少女の髪をなびかせる。
 いい匂い。
 気のせいかしらと視線を戻した少女のまわりで、当たり前のように人々の暮らしがつづいている。
 少女の目に映る風景が、そよいでくる香りが、心地よく響く遠い音や声、周りのすべてのものたちが、少女を優しくつつみ込み、そして優しく責め、優しく諭しているようだった。
 その広いキャンパスを、斜めに滑り横切る影。
 刹那、後ろ向きの期待とそれに矛盾する拒絶感の混ざり合った、もやもやしたもの---今の少女をつき動かしていたそのもの---が彼女の首をそちらへ向かせる。
 惹かれるように目で追ったが、どこか別の川から南へ飛んでいくところなのだろう、それは数羽の鴫の群れだった。
 それが何も思い煩うことのない向こうの世界へと自分を誘ってくれる、1羽の大鳥でなかったことに大きく失望しながらも、少女は心の中でどこか安堵を感じていた。
 少女の脳裏にはまた、イメージがめぐる。

  煙をあげて落ちていくヘリコプター
  どうしても時間の合わない狂った時計
  相手をするのも疲れるくだらない友達
  誰ひとり救うことのできない神様
  見知らぬ男に横抱きにされるまま売られていった子供
  みんなの代わりに、私が生きてあげようかな。

 ふと気づくと、そんなことを思いついた自分に少し驚いた。
 仰ぐ空の色が染み透っていくのか、少女の心の雲も少しずつ散っていき、赤く、青く、だんだんと晴れわたっていくようだ。
 どうやら、右手に持ったままの本の中にある切符は、行き先を変えたようだ。
 何かが、少女に思い止まらせたようだった。

 だがしかし、少女の恋する優男は、理由あってすでに天国にいた
 ひねもす男は下界の少女を見守っていたのだ
 空の上からは少女の頭しか見えない
 いいお天気だからもう少し生きてみよう、と彼女が天をあおぐその時だけ、瞳を見ることができるのだ
 ああ、だから、なるだけ上を向いてお歩きなさい
 それから、あまり甘いものばかり食べすぎぬように

 川の向こうに暮れ始めた夕陽が、だんだんとその面積を縮めてゆく。
 あとほんの少しだけこのまま座って空を見ていよう。もうすぐあの陽が沈んで月が出るから、そうしたら、そうしたら家に戻ろう。
 太陽は川の流れていく末に消え、代わりに月が流れに沿ってやってきた。
 辺りは次第に暗さを増し、見回すとあの親子も釣り人たちも皆、すでに家路についたようだった。
 少女は腰をあげて両手を上に大きく伸ばし、胸を反らした。
 そして何か縛めを振りほどくかのように、大げさにひと息ついて、もと来た道をまた歩くために足を一歩、踏み出した。
 まるでここへ来た時とは別人のように、少女は何の屈託もなく、いつものショーウインドウの前でするように微笑んだ。
 一歩、また一歩、土を踏んでいく感触を身体全部で強く感じながら、彼女は歩き出す。

 その少女の頭の上を、いま飛行機が静かに横切った。

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