喫茶店

 外は吹きすさぶ寒風が肌に痛い程の午後。ちょいと身の回りのものを買いに行ったはいいが、厚着をしてきたのにもかかわらず、まだかなり寒い。いや、家を出た時分はまだそれ程でもなかった。シャツやセーターなど4枚も着て、ポケットに両手を突っ込んでいれば、流石にしのぐのにさして辛くもなかった。
 それが、この寒さときたらどうだ。とても真っ直ぐ家路につくことはできそうにない。
 この町に引っ越して来て半月あまり。まだどこにどんな店があるのかも把握できていない。自分の家と、会社、この2点を繋ぐ線だけが、唯一私の知っている道のりなのだ。アパートから歩いて15分足らずの、しかし家から一番近いこの商店街も、まだ碌に見てまわったことすらない。だいたい、平日は仕事で会社、夜はこんな小さな商店街だ、灯がおちるのも早い。見るからに寂れたスナックの類が2、3軒、看板に灯りを点しているだけで、どの店も硬くシャッターが閉じられている。そのシャッターも取り付けたばかりかと思うほど綺麗なままで、繁華街にある店々などのように不心得者がスプレーの落書きをし放題というようなこともない。そもそも、日が落ちてから夜遊びに耽る少年少女など、この町では終ぞ見たことがなかった。かといって休日は、連日の残業の疲れで1日中布団の中だ。ぶらっとタバコでも買いに行こうという気すらおきない。朝食はとらず、夜は会社の付き合いか、帰り道の途中で屋台のラーメンでも適当に食べて帰って来るので、本当に家にいる間は殆ど寝ているだけだ。
 それが、我ながら何の気紛れか、まあそろそろ消耗品などは買い足しておかざるを得なくなっていたとはいえ、久方ぶりに会社とは関係なく町へ出てきたというのに、こんな日に限ってこの寒さだ。まったく、ついてないというのはこういう事をいうのだろう。
 取りあえず手近なデパートに入り、さっさと必要なものを買い求めて、命を救われるような温さに後ろ髪を引かれる思いで外へ出た。
 本当に、雪が降って来ないのが不思議なくらいの寒さだ。
 5分程歩いただろうか、すでにあの暖房のきいた駅ビルを出て来てしまったことを、半ば後悔し始めていた。行きと違い、両手に荷物を持っているためにポケットに入れることが出来ないというのは盲点だった。これだけでもかなり体感温度は変わるものだ。
 取りあえずどこか適当な喫茶店にでも入って、熱いコーヒーを1杯飲んで、暖をとろう。そうすれば、この挫けた身体も生き返るだろう。
 丁度少し行った先に、小さな四角い看板が見えた。『喫茶』と書いてあり、その下にそれよりも大きい字で『プノンペン』と書いてある。何だか珍しい響きだが、どうやらこの店名らしい。迷うことなく入った。
「いらっしゃいませー」
 どこか違う国の訛りと思われる節で、ウェイターが迎える。背丈は私と同じくらいで165cm程だろうか、ただ若く見えるわりに、実際の年齢となると皆目見当がつかないような、表情の読めない顔をしている。目は細く唇は薄く、全体的に彫りは浅くのっぺりとした印象を人に与える顔立ちだ。アジア系なのは間違いないが、タイやベトナムの人だろうか。いや少し肌が灼けたように黒いのは、実際日焼けのためで、もしかすると中国や朝鮮あたりの生まれかも知れない。男であろうが日焼けサロンに通うことぐらいは今や常識の範疇だ。
 オーダーを取りに来たウェイターが、メニューを差し出す。
「ご注文は何にいたしますか?」
 開いて見て、何が書いてあるのか分からなかった。一瞬、両方の視線が交錯して、視界が左右にすごい勢いで振れた。
 少し混乱したが、すぐに理解できた。
 どうやら、メニューが全て漢字で書かれているらしい。それは徹底していて、値段ももちろん漢数字で表され「¥」のマークも「〜円也」となっているし、そもそもカタカナでさえ見あたらなかった。
 コーヒーは漢字で『珈琲』だから……。
 視線を滑らせるが、珈琲が見つけられない。というより、どんなに目を凝らして探してもないのだ。
「あの、コーヒーありますか」
 問うと、彼は何故かはっとして顔をしかめたが黙ってメニューの一箇所を指差した。そこには、こう書いてあった。
『南米産黒色豆汁---六百円也』
 これじゃ分かる訳がない。大体、これでは何の豆を使っているのかも分からないと思ったがふと気付くと、値段の前に小さい文字で何か書いてあった。
『(青山)』
 再び頭が混乱したが、小考の後どうやらブルーマウンテンであろうことに気が付いた。
 変わった店だなと首を傾げながらも、それをオーダーした。
「じゃあこのコーヒー、ブルマンですか、これをひとつ」
 またしてもウェイターの穏やかだった顔が少し気色ばんだ。
「……お客様」
 咎めるような口調だ。何かまずいことでも言ったかなと思いつつも、何も知らないふうを装って応える。
「はい?」
「お客様は当店初めてでございますね。それでは無理もないというものですが、お客様には失礼と存じますけれども、当店ではお客様に限らず店員共々外国語の使用を、特に英語に関して固く禁じております。言ってみれば当店における礼儀作法でありますので、何卒ご協力をお願い致します」
 外国語の訛りはあるものの、しっかりとした日本語でそう言い、入口のドアの貼り紙を指差した。
『英語の使用を固く禁ず・当店内で外国語を使用した場合、罰金として10,000円いただきます』
 私は自分の耳を疑った。変わった店だなというよりも、そんなのは生まれて初めて聞いた。英語が禁止? 何て店だろう。それ以前に、この店の名前はどうなるんだ。あれはいいのか? 何か腑に落ちないがしょうがない。郷に入れば、という諺もあることだし、コーヒー一杯飲んで身体が暖まったらとっとと出よう。
「分かりました。それじゃこの南米産黒色豆汁の青山ひとつお願いします」
「かしこまりました。お客様、砂糖と牛乳はどう致しますか」
「え? ああ、ミルクね」
「お客様やめて下さい! 外国語は。私が店主に叱られます! そうでなくてもお客様はもうこれで2度目ですから、いくら初めての方とはいえ、そう何度も外国語の使用を見逃す訳には参りません。本来ならば罰金としてすでに2万円を頂いているところなのでございますよ」
「あ、ああ、す、すいません」
「以後、充分に気を付けて下さいますよう。お客様、砂糖と牛乳はどう致しますか」
「ああ、い、いいです。結構です」
「かしこまりました。それでは御注文繰り返します。『南米産黒色豆汁青山』ひとつ、宜しいでしょうか」
「はい」
こうなったらもうあまり喋らないに限る。しかし何て店なんだ、ここは。だからといって彼を責める訳にはいかないが。あんなに気を遣って日本語を喋るのも辛いだろう。仮令いくら慣れているとしても母国の言葉ではないものを強制されて、さぞ気疲れしているに違いない。
 うっかりととんでもない店に入ってしまったものだが、初対面である外国人の彼に、何か共感できる部分というか、同情するというか、温かい連帯感のようなものを見つけて胸がいっぱいになった。
 そんなことを考えて少し救われた気分に浸っていると、ウェイターは戻って行き、カウンターの奥に向かって一言、叫んだ。
「コーヒー、ワン、プリーズ!」

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