錦松梅

「おっと、そこの羽振りの良さそうな先生、大島紬かい、絣の着物がイカすねえ。恰幅のいい素敵なお方、水も滴る良い男、まそれにしちゃちょっととうがたってるが。旦那旦那、あんたさまのことですよ。ちっと、ちいっとばかし寄って見てっておくんなさいな」
 またかね。これで何度目か知らん。
 八百万町といえば、花のお江戸でも一番の、わたしら商売人の熱気にあふれた町だ。『火事と喧嘩は江戸の華』なんてことをいうが、こう、ぶらぶら外を歩けば、もう半刻も経たぬうちにこの男みたように声をかけてくるのが、火事の火消しの数ほどはいよう。
 相手をするのも面倒なもので、花札の紅葉と決めこんであたりを見回せば、そらそこでもここでも商人連中が口を大にしてうちのが、いやうちのが元祖だ、いやいやうちこそ本家、畏れ多くも先の副将軍の……なんて口の端から泡飛ばして、たかが饅頭、団子一つに息巻いてござる。言ってることは皆同じだがね。
 こういう輩が声をかけないのといえは、それこそ頭から蓙を被った乞食か、外に出られない寝たきりの病人くらいのものだ。それも近頃じゃ物騒になったもので、その病人の長屋にずかずかと転がりこんで、相手が動けんのをいいことに商売物を証文と一緒に有無を言わさず置くだけ置いて、はい御買い上げ有り難う御座います、という輩も多いとのことだ。
 ほかにも近頃流行りの、買った物にいろいろあれもこれもおまけと称して要らぬ物を付けてくる、あれも宜しくないね。物の数で客目を惹こうってのが腹黒くて、姑息でいけない。
 つい一昨日の瓦版にもあったっけ。
『お買い得、特製桐箪笥が前より二竿増えまして四竿に。今なら特別にこの着物をしまう時などに便利な乱れ篭をさらに二つおつけしまして、なんと据え置き価格の四十文』
 くわばらくわばら。
 まったく商売人の風上にもおけんわい。
 うちみたように先祖代々から八代も続いている、八百万町でも指折りの由緒正しい老舗じゃ、お客さまはそれこそ神様仏様観世音菩薩様、商売は商人とお客さま、信用、信頼こそもって、商いはこつこつ正直に、あとは忍の一字だと店先掃除の丁稚奉公からみっちり叩き込んでいるもんだが。
 まったくもって不愉快な話だ。
「……旦那旦那、旦那ってば。そんなそっぽ向かないでちょっくら見てっておくんなさいよ。なんせ見るだけならいっくら見ててもロハだ。こちとら円正寺のほおずき市の、ちゃちな見世物小屋たあわけが違う。ゆっくりたんと、穴のあくまでじっくり見てって貰うだけでも構わねえ。西のお空が真ッ赤っかになって、山の烏が一声カアと鳴くまでそりゃもう好きなだけ見てっておくれ。それでも万に一つ、気に入らなけりゃ、しょうがねえ。こちとら押し売りじゃねえよ、買うのかどうかは御客さまのお好きなように、だ。見せるだけ。去る者追わず、だ。ねえ旦那ってば」
 まったく五月蝿いね。まだ喋ってるよ。こっちも随分と早足なんだが、執こい男だねえ。
「こいつあ参った。これだけ言ってまだ知らぬふりたあ頭が下がるが、それでこそ俺っちもやりがいがあるってもんだ。どこの馬の骨とも知れねえ客引きに、いちいちついて行った日にゃあ、それこそ我が身がいくつあっても足りゃしねえって了見だ。そんな旦那だからこそ、是非是非見てっておくんなせえ。こちとら伊達にこの暑いなか、毎日毎日朝も早よから晩おそくまで、北は八代将軍成宗様ご城下の大安門から南は築地の大市場、東は墨田の白髪橋から西は石分寺の山門まで、この狭っちい額に一所懸命汗水流して躍起にただ声張り上げてるだけの馬鹿じゃねえよ。一目旦那を見てこう、何かぴんときましたよ。商売人の勘ってやつでさね。このお方は本当の良いものを見分ける目をお持ちだってね。見たところどこぞの大店の大旦那でいらっしゃる。いやいや、隠さなくても分かります。さぞやお美しい若奥方でもいらっしゃるんでしょうなあ。それで夫婦助け合いながら旦那は一家の大黒柱、若奥方は内助の功、一家安泰、商売繁盛ってなもんだ。帳簿の勘定で忙しい日にゃ「ちょいとお前さん、こっちでお茶などいかがどすえ」って、俺っちなんざあ毎日毎日走り回って、女と遊ぶ暇もないよ。いやその気になりゃいっくらでも暇なんだが、そう思って可愛い娘さんに一声でもかけりゃ、向こうは怪しい、なにかつかまされるってんでちらともこっちを見やしない。うらやましいねえ、憎いよこのう。もうほんのちょっと、ほーんのちょこっとだけだから。せめて見るだけでもね、旦那あ。これから壷や画でも覗いて、たまの休みに目の保養、気に入った茶碗のひとつでもありゃ買って、後生大事に抱えて帰ってゆっくり磨いて溜め息ついて茶ァでも点てて一日過ごそう、ってとこでがしょ。そんな勿体無いことするぐらいならうち見てって。絶対損させないよ。そんじょそこらで売ってるつまらん物とは一味もふた味も違う。十把一からげ、ほかのどこに行ったって手にはいらない代物ばかりだ」
 当たってるわ。確かに今日は月初めの茶会のために良い茶碗でも選びに行くつもりだったが。そこまで言うのなら、気にもなるからちょっと見てみるのも良いか知らん。
 見ればそれほど悪い奴でもなさそうだ。額に玉の汗をうかべて、必死だわい。ここで知らぬ存ぜぬを通すのも、少々気が引けるというものだな。
「……ちょいとお前さん」
「おっ、やっと重てえ腰をよっこらしょと持ちあげたってわけかい、そうこなくっちゃ。それでこそ俺の見込んだ大人だ。いつかね、鹿十されたっていい、いつかこうやってずっと真心こめて話してりゃ、いつかきっと解ってくれると思ってた。くうう、それがやっと、絶対、絶対後悔させないよ。ほかのどんな所へ行ったって絶対手に入らないものばかりだ。どこの港に行ったって、伴手連でも唐土からのでも、どこの船にも積んでねえ。俺っちあ客引きだが、犬でも猫でも声かけるってわけじゃねえ。永年鍛えたこの俺さまの確かな眼が選んだ、この人だってお人にしか薦めやしないんだから。もうこの旦那なら絶対わかってくれると思ったよ。この世知辛い世ン中、右も左も凡くらばかりの世ン中、見てくれだけしか能がねえ、毒にも薬にもならねえもんばかり有り難がって、しまいにゃ鰯の頭に手エ合わせて拝んじまうような奴らとはわけが違うってね。そんな奴らにゃ三途の川の舟守にべらぼうな船賃払う時になったって、絶対わかりっこないんだから。そんな本物だけがもってる素晴らしさ、輝きっていうの? ここだけの話、大旦那だけにこっそりとお裾分けするよ」
「おいおいわかったよ。よくもまあそんなにべらべらと口が回るねえ。このまま止まらなかったらどうしようか、このままずっとお前さんの口上を聞き流していてもいいんだが」
「そんな殺生なあ。俺っちだってただ毎日毎日……」
「まあ待ちなさい。まったく忙しない男だねえ。お前さん口から先にオギャアと生まれてきたんじゃないのかい。口の中がカラカラに渇いて喉と腹がひっついて、すり切れた洗濯板みたいになっちまっても、わたしゃ知らないよ。だいたい何だい。往来で馬鹿みたいなでかい声はりあげといて、こっそりとが聞いてあきれるよ。……ん、何もわたしもお前さんに意地悪しようってんじゃないんだ。ついて行こうじゃないかえ」
「おおッ。そうかい。やっとついて来る気になったかい。有り難え。いやあ、旦那ならわかってくれると思ってたよ。もう昨夜も昨夜、草木も眠る丑三つ時に、ただただ今日は旦那さえ来てくれれば、お願いってんでそれこそ神頼み、蕪戸神社でお百度踏んでた甲斐があったってもんだ」
「お前さんも平気の平佐で嘘八百を言うね。お前さんみたいのが地獄の閻魔様に舌べろ引っこ抜かれるんだよ。わたしとお前さんとは先刻初めて会ったばかりだろう。だいたい有る事無い事、好きなだけ並べたてて言いたい放題、わたしにゃお美しい若奥様なんざ、いやしないよ。しかもなぜ上方言葉なんだい。まあ色々と小うるさいったらありゃしない、お幸って婆ァが一人いるくらいのもんだ。小言幸兵衛ならぬ、小言お幸だわな」
「またそんな。このう。真昼日中から愛狂しい恋女房のことを褒めそやされるなんざァ、そりゃあ尻の穴がむず痒くなるってもんでしょうが、なに、照れることなんかありゃしやせん。あ、それとも、お妾さんかい? かあッ、まったく簀巻きにして神明橋から勝田川へ投げ込んでも飽き足らないほどうらやましいね。この色男。水も滴る良い男、まそれにしちゃちょっととうがたってるが、」
「その台詞は最初に聞いたよ。お前さん客引きにしちゃ、ちょいと語彙が乏しいんじゃないのかい。さあ、おべんちゃらはそのくらいにして、案内してもらおうじゃないか」
「かあ、こいつは一本取られた。まいった。さすが俺らが見込んだだけの男だ。男と言っても色々あらァな。侠・漢・男・郎、さしづめ旦那は男伊達の男だね」
 そんな他愛もないことを話しながらついて行くと、だいぶ歩かされて足も棒になろうかというころになって、やっと男は町の隅にある、少し開けた空地の、疎らにあばら屋が建っている一画に辿り着いた。とはいってもただでさえだだっ広いこの八百万町だ。連れ回されているうち次第に日も西に暮れてきて、ここがいったいどの辺りなんだか、すっかり分からなくなってしまった。
「さ、ここです。旦那、着きましたよ。ずずっと奥へ入っておくんなさい」
 いろいろ珍しい物が手に入るようなことを言っていたが、ちょっと見、ただ閑古鳥が鳴いているだけの、猫の額ほどしかない市場だ。店屋、ところどころに蓙を敷いて何やら怪しげな物を並べているが、さて来てみたからには良い物を選んで帰ろうか。
 と思った矢先、肩がぶつかった。
「いててっ……、とくらあ」
 見ると、わたしよりも頭ひとつほど背丈のある着流しの男。髪はぼうぼう、髭ものび放題、くわえた煙管の煙越しに見える目は、随分と酒が回っているようだが。
「おうおうおうどこに目エつけて歩いてやがんだこの野郎。人にぶつかっといてあいさつ無しってかい。こちとら今ので肩の古傷がおかしくなりやがったみてえだ。おうおうおう、この落とし前どうつけて貰えるんでえ、とくらあ」
 来た早々厄介そうなのに目をつけられたもんだ。そもそもわたしゃただ立ってただけなのに。ぶつかって来たのはそっちの方だろう。近頃のやくざ連中はどうもせせこましいねえ。
 胸ぐらをむんずと掴まれたまま、さてどうしたものかと思案のしどころ、押し黙っていると、男はわたしの肩に手を置いた。下から舐めあげるようにこちらの顔を覗き込みながら、くわえた煙管を目の前でゆらりゆらりと振って、にやにや笑っている。
「まあ、な。俺もこう見えて刃傷沙汰は嫌いでね。見たところ随分と羽振りが良さそうじゃねえか。ここはひとつこれで丸く収めようや、な」
 そういって、人差し指と親指で丸く円をつくってみせる。
 なぜわたしが、と言おうとするところへ、横から先ほどの客引きが割って入った。
「まままま寅蔵さん、勘弁してくださいよ。こちらの旦那はなにしろ一見さんだ。俺っチが血の汗流して、こぼれる涙も拭かずにやっと土下座で頼み込んで来る気になってくれた大事な大事なお客人だ。ここは一つ見逃してくださいよ。兄貴の腕っぷしを知らない者はここじゃもぐりだ。そんな初顔さんに免じて、俺っチに免じて、ここはどうか、ね。ひとつ。へへへ」
「なんだ。平吉の客か。それを早く言えってんだこの野郎。ああ、わかったわかった。わざわざお前の客を横取りしたりしねえよ、けったくそ悪い。とっととどこかへ失せちまえってんだ」
「悪ィね、兄さん。相変わらずいなせないい男振りだね。今度、酒おごるよ。なんてったって寅蔵兄ィの……」
「よせやい。その手は桑名の焼き蛤ってんだ。いつもいつも人の金で飲み食いしやがって。とっとと行っちまえ」
「へへへ、かなわねえなあ」
 寅蔵は、そう言いながら逃げるように去って行ってしまった。それにしてもこの平吉の如才ないことといったらどうだい。あの喧嘩っ早そうな男が顔色変えて逃げて行ったよ。
「お前さん、平吉っていうのかい。たいしたもんだねえ、あんな強そうな大男相手に。難なくうっちゃっちゃうんだから」
「またまた、この旦那、目だけじゃなくて口も利くときてる。いくら誉めたって何も出やしないよ。……まあ、ここじゃたとえ商売敵でも商いの掟は絶対だからね」
「掟?」
「そう。売られちゃった物には金払わなきゃいけねえっていう、ただそれだけ。当たり前のことだけどね。たとえ自分が知らない間でも、買ったつもりがなくても、いつの間にかそれで得してたらそりゃ金払わなきゃいかんってね。まァ、そういうこと」
 まあ当たり前と言えば当たり前だ。だが、なんでそれと寅蔵が逃げたのと関係があるのかが今ひとつ分からん。
 しばらく間があいたので、黙っているのも何だ、寅蔵のことでも話すとしようか。
「寅蔵さんとやら、あの男は何を商売にしてるんだね」
「え、いやだね旦那。さっきその両の目でしっかりご覧になったとこでしょうに。そらっとぼけちゃって。俺っチ笑わせようったってそこまで馬鹿じゃないよ。旦那、危なく買わされそうになったじゃないのさ」
「え、何をだね。とくに何も商売物らしい物は持っていなかったようだがなあ」
「知らばっくれちゃって。本当にわかってないの? 『喧嘩』ですよ」
「確かに喧嘩は売られそうになったが、それが……」
「ほうら。やっぱり分かってるじゃないのさ。油断も隙もありゃしないお方だね旦那は。さすが生き馬の目を抜くこの八百万町で大店構えてるだけのことはある。何もかもお見通しのくせして、わざと知らぬ振りで俺っチからかって楽しんでるってんだから。かなわねえなあ、旦那にゃあ。まったく家のかかアに爪の垢煎じて飲ませてやりたいもんだよ」
「お前さん男寡じゃあ……」
「まあいいからいいからそんなことは。で、あの寅蔵兄ィのことよ。兄ィの商売は喧嘩なの。喧嘩売って、金もらってんのよ」
「用心棒か何かかい」
「いやいや旦那、そうじゃありやせん。急に飲み込みが悪くなったねこの人は。分かった。また馬鹿のふりして俺っチからかおうって魂胆だな。旦那みてえな大人物が相手じゃしょうがねえ。俺も馬鹿になって付き合いましょうや」
 そう言うと、平吉はひと息吐いた。
「『喧嘩を売る』って言葉があるでしょう。そのまま。寅蔵の兄ィは喧嘩って売り物売って商売して、客から金貰ってるんですよ。いやいや、そんじょそこらにごろごろござる、やくざやちんぴらのたかりやゆすりとはわけが違うんだなあ。ここんとこがちいと俺らの馬鹿頭じゃ言葉に尽くせねえが」
 なんだそれは。言葉はとおってるが意味が通っておらんじゃないか。
 訳が分からず神妙な顔をすると、それを察したのか平吉がさらに続ける。
「だから。ほかじゃ絶対手に入らないもんばっかりだって言ったでしょうが。物ったって形ある物ばかりとは限らねえよ。大事なのは心。ここよここ」
 そう言って自分の胸を張り、親指で指して見せる。
「寅蔵の兄ィに喧嘩売られた客は、皆喜んでお代払って帰っていくんだ。そんな馬鹿なことあるかって? あるんだねこれが。東西南北、世の中広いよ、色ンなことがあらァな。ただ、誰にでも出来る商売じゃねえ。寅蔵の兄ィだからこそ出来る商売なのよ」
 何を言ってるんだこの馬鹿は。それをゆすりたかりと云うんじゃないか。
「で旦那、見てってくださいな。ほら、あっちなんかどう」
 平吉が指で示した側には、ただ座り込んで惚けているとしか見えない男が一人。その横には魚売りが担ぐより少し深い桶がだらしなくほうって置いてあり、時たまそれ越しに隣の店の男と二言三言喋って笑い、またもとのように伸ばした足をぶらぶらさせて、退屈そうに欠伸なぞしている。
「あの男は、あの桶の中身は何を売ってるんだね」
「ああ見に行っても無駄無駄。あの桶ン中はどっちもすっからかんの空っぽだ。八っつぁんが売ってるのは『油』だからね」
「油……」
 ついていけん。
 段々と、頭の芯がつーんと痛みだしてきたよ。
 すると、後ろから肩をたたく者がある。
「や、旦那、こんち良い御日柄で」
「はあ」
 三十路を少し過ぎたくらいだろうか。この暑いなか、羽織袴できちっとかためた小太りの男が、すごい勢いで額をつたう脂汗を、左手に持った手拭いでしきりとふきながら、反対の手では忙しなくいっぱいに広げた扇子をはためかせている。
「あたし、ここで商売させて貰ってます。信兵衛というもんです。どうぞ御見知りおきを」
するとまた、すぐに平吉が割って入って来る。
「信兵衛さん、その旦那は俺っチの客人だから。あっち行って。ほらほら早く」
「なんだい。平吉っつぁんのお客さんかい。つれないねえ」
そう言うと男はさっと身を翻して、少し離れた所にいたこれも初顔らしい老人の前で挨拶の口上を始めた。そこへもう一人の男がやって来たかと思うと、信兵衛と何やらもめているらしく、やがて口喧嘩が始まった。
「旦那に声かけた信兵衛って男が売ってるのは『顔』。それからいま信兵衛とひと悶着おこしてるお侍風は竜ノ進っていって、奴が売ってるのは『名前』。あいつらときたら一年中ああやって客取りあってる。俺っチにゃあ、どっちがどう違うのかはよく分からねえ。同じことやってるとしか思えねえんだけどね。まあ旦那ほど目の利くお方なら、あいつらと俺っチとは違うってこともよっくお分かりの事と存じますがね。いっけねえ、存じます、だなんて、柄にもねえ言葉遣いをしちまったよ。これも旦那といるせいかねえ。なんていうかこう、旦那から自然と滲み出てくる風格、人気、人徳っていうの? 歩んだ人生の渋み、深みが知らず知らずのうちに俺っチみたいな唐変木にも移っちまうのかねえ。やっぱり老舗を一手に仕切る大旦那ともなると、もうそうやって立ってるだけで他の有象無象の民草なんぞとは格が違って、侘び寂びを感じさせるねえ。俺も一生誰かについていくとしたら、今目の前に居わっしゃる旦那みてえなお人に仕えたいね。ほんとに手エ合わせて拝んじゃうよ、俺ア。あ、にんとすはっかっか、ひじりきほっきょっきょ、とくらあ」
 相変わらずの調子で口が開きっぱなしの平吉が、掌を合わせて何やら妙な経文を唱え出した向こうで、信兵衛と竜ノ進の喧嘩に寅蔵が割って入っていくのが見えた。
「それからそうね、あれは……」
 急に平吉の声に呼び戻されてそちらに首を向けると、なにやら地面に奇ッ怪な紋様を棒ッきれで描いている、ぼろを纏った男が苦しそうに息をついていた。乞食が水責めにあったような姿のその男は、ぶつぶつ、もごもご、なにか独り言のように小さく幽かに、喋るでもなく、唱えるでもなく、一心不乱といった体で、棒の先で土を掻いている。
「あいつはここでも一番変わったもんを扱っててね。売るってえのか、売ろうとしてまだ売れたことがねえって言ったらいいか……、まあ、もう商売の相手は決まってるからね。旦那にゃあ、関わりねえことだが」
「やけに奥歯に物の詰まったような物言いをするね、お前さん。もういい加減驚きゃしないから、言ってごらんな」
「まいったね。その歳になってまだ好奇心旺盛、何事も商売のため、後学のためってわけだ。恐れ入谷の鬼子母神だ。勉強になるねえ。そりゃ旦那がそこまで言うんなら、別に秘密、そこらじゅうに転がってるここだけの内緒話でもねえ、教えるがね。あいつが売ろうとしてるのは『魂』。ああやってもう半年になるかな、ずっと地獄の鬼に魂を売ろうとしてるのさ」
「確かにそれでは買おうと思っても買えないね」
……馬鹿だ。ここの人間はみな、頭がどうかしてる。馬鹿の集まりだ。なにが、心だ。一刻も早く、こんな無駄な暇つぶしは止して、こんなところからおさらばしよう。
「だから言ったでしょうが。もう商売の相手は決まってるってね。旦那ともあろうお方が、聡明なお方らしくもねえ。それから……」
 このままずっと続きそうな平吉の勢いをなんとか留める。
「ああ、もういいよ。十二分に見聞させてもらった。まったく、他では見る事の出来ない貴重なものばかりで、びっくりさせられた。しかし、今日のところはもういい。朝方引いた神社のみくじにも、今日は日が悪いとあったからね。是非また近いうちに寄らせてもらうということで、そろそろお暇しようと思うのだがね」
 なんとかこの場を丸く穏便に切り抜けようと、そう言ったわたしの胸先に、平吉の大きく開いた手が差し出された。
「へえ、それじゃさっそくお代を」
「なんのことだい。わたしゃまだ今日は何も買ってないよ」
「いやだなあ、旦那。こっちはあれほど一所懸命に汗水流して売り込んできたっていうのに。言ったでしょう。売られちゃった物には金払わなきゃいけねえって。そういうわけで、お代を頂かないことにはいかないんでさあ」
「お前さんがこのわたしに、いったい何を売ってくれたって言うんだい。わたしはお前さんがどうしても来ておくんなさいって、しつこいから、見え見えのお世辞にのってやるのも一興だと、こうして足を向けてわざわざ忙しいなか来てやったんじゃないか。それで何を見せられるのかと思えば……、そういや、お前さんはここで何を商売にしてるのか聞いていなかったね。お前さんはここで何を売ってるんだね」
「へえ。俺っチはこうやって媚を売ってるってわけでして」

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